わたしは思っています。
基本的に
「誰が書いたか(言ったか)」
ではなく、
「何を書いたか(言ったか)」
であると。
「基本的に」と、わざわざ書いたのは、内閣総理大臣が内閣総理大臣として書いたものと、わたしが書いたものには受け取る側の重みが違うということは考慮しているからです。
でもそれも受け取る側のバイアスであって、書いたものがどうであるか、ということの本質にはかわりはありません。
地位や立場やキャラクターによって、より厳しい目に晒されることもあるでしょうし、逆に地位や立場やキャラクターによって、許されることもあるでしょう。多いでしょう。
多分、わたしの誤字や、くっだらないハイテンションの文などは
ヤレヤレ ┐(´ー`)┌ マイッタネ
という感じで許してくれている人が多いのではないかと思います。ありがとうありがとう。地球の皆さん、ありがとう。
できるだけ、誰が言ったかではなく、何を言ったかで判断したいと思っています。
地位のある人でもおかしなことを言うことはたくさんあります。社会を知らない中学生がいいことを言うこともあります。当たり前ですね。当たり前。でも「誰が言うかだよな」みたいな記述を見ると、もやっとします。
体験がない人が語ったからといって、その主張が間違っているわけではありません。体験している人が語れば全体を語れているか、というとそうではないこともあるでしょう。自分の体験は自分の体験でしかないから。
体験談は役に立ったり励まされたりすることはとても多いです。体験した人にしか解らないこともたくさんあります。でもその体験談が必ずしも全体にあてはまるわけではありません。体験は概ね個のものです。
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企業なら社長の言うことと、課長の言うことの重みや、実行への可能性は違うでしょう。でもインターネットの世界では、そういうことなく、みんなが平等であるという目線で主張を追いかけたいと思っています。
だから
「誰が言ったかではなく何を言ったか」
できるだけそう思っていたいのです。
「この人は○○だよね」
というバックグラウンドを、許すことや、納得することに使うのはよいのですが、批判するほうには使うことにはもやっとします。
「あの人は○○だから」
と批判するのではなく、言っていることがどうなのか?
そこをいつも意識していたいと思っています。
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