今週のお題「2014年のお別れ」〈2014年をふりかえる 3〉
今年、友人が亡くなった。
その人の仕事に対する姿勢や、考えかたがとても好きだった。自分の思っていることを、きちんと伝えようとする姿勢。それは、誰にでも、どんなときにも揺るぎなかったと思う。
お世辞を言ったり、心にもないことを言ったりすることはなかったと思う。厳しいことも必要であれば言ったと思う。遠慮なく、たくさん、裏表なく。その分、その厳しさが必要でないときにはとても優しかった。優しい人だった。そしてたくさんの人に愛された。
亡くなる直前までネットでやりとりをしたり、お見舞いに行った。
「また来週来ますね」
と、手を振って帰ってきた。
そして2日後、訃報が舞い込んだ。
それから、何度も夢を見た。
喪失感で気持ちが落ち込んだりした。
親しい間柄というには語弊があるような関係で、好意は持ってくれていたと思うけど、その人にとってわたしは多分重要ではない人だったし、共通の友人はわたしよりももっとその人と親しかったので、わたしの喪失感よりも何十倍も何百倍も強いはずだったし、他の人とその話になったときには、お互いの思いがあまりにも違って嫌な気持ちになったこともあった。だから思っていることを語り合うこともできなかった。自分の中だけでぐるぐる考えていた。
何度も夢を見た。
そして、なんであんなにいい人が早く亡くなってしまうんだろう、とか思った。わたしでなくて、あの人が。わたしでよかったのに、とか思った。
文字にするとものすごく安っぽいし、自虐的だけど、ひっそりと何度もそんなふうに思った。
そんなどうしようもない気持ちを、自分の中だけで発酵させて発酵させて発酵させて、最近やっと少し昇華できてきた。生きることも死ぬことも、そこに理由なんかないんだろう。いい人だから長く生きるとか、いい人だから早く亡くなるとかそういうことはない。生きているから生きている。
だから、わたしは生きている。
その時が来るまでちゃんと生きる、ってことも、それもまた言葉にすると陳腐なんだけど、そんな風に思って、ぐるぐる回って、戻ってきて、何周も何周もぐるぐると回って、戻ってきて。
なるようにしかならないし、
生きているから生きていくし生きていける。
だって、やっぱり、そんな弱音みたいな自虐みたいなことをわたしが言うのを聞いたら、きっと、厳しく、でも、静かに「わたしはそうは考えないし、それは違うと思うよ」って、言われそうなんだもん。
もう多分誰とも、誰にも語ることはないと思う。
2014年のさようなら。
「生まれ変わったらまた出会ってそして」
って、言われたんだから、来世楽しみにしているよ。
さようなら。
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