嫌なことも嬉しいことも人によって違うから
自分がされて嫌なことは人にしてはいけない
自分がされた嬉しかったことは人にもしよう
と、よく言うけど、これは危うい。
だって、
嫌だと思う気持ち
嬉しいと思う気持ち
は、人それぞれ違うから。
だから、
絶対、嬉しいに違いない、とか
絶対、嫌に違いない、というように、断定的に思うのはやめたほうがいい。
概ねの想像力を持ってやるしかないの。
○○だから、多分あの人も喜ぶだろうな。
○○だから、多分あの人も嫌だろうな。
と、「多分」ってくらいに思っていた方がいい。
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善意でしてあげたことがお互いの不満になっちゃう
「絶対、嬉しいに違いない」
って思っていると、それほど喜ばれなかった時には
「えーなんで喜ばないの?」
と、不満のもとになる。
人によってはそれは嬉しいどころか、嫌なことかもしれないんだよ。
だから
「多分、嬉しいよね」
くらいに思っておいたほうがいい。
そうすれば、相手の反応を、それほど先入観なく観察ができる。
「ああ、あまり嬉しくなかったんだな」
ということも見えてくる。
それを、「絶対、嬉しいはず」って思ってしまうと、逆だった場合の対応がおかしくなっちゃうんだよね。
されたほうからしてみれば、嬉しくもありがたくもないことを勝手にして、ドヤ顔されてもね-、という気持ちだから。
ハッキリ言っても伝わらない相手にはなかなか伝わらない
された嫌なことや、してもらって嬉しいことはハッキリ伝えたほうがいい。そのほうが食い違いが防げるから。
でも、ハッキリ言ってもなかなか伝わらないこともある。
すごくちっさい わたしの話。
習い事で、勝手に人の道具の準備をする人たちがいる。
わたしは準備も含めて習い事だと思っているし、最初先生もそう言っていた。だけど、勝手に人の準備もしてしまう人がいる。
それ、全部自分でできるって。
道具の前までわたしも行ってるのに、小走りで先回りして「はい」と渡されてもね。
片付けも、自分の道具は自分で片付ければそれでいいのに、片付けるところに陣取って、人の道具を受け取っている。それ、あなたがそこにいて受け取る必要ないから。並んでいる人が順番にケースに入れればいいことだから。
なんだろう?お礼を言われたいの?
そのほうが効率がいいならいいんだけど、あなたがそれをやっているほうが効率がよくないわけよ。そこにいられても全然効率よくない。
ほら、そうやっているうちに、他の人があなたの道具を片付けてるじゃない。人のことをやらずに、みんなが自分のことをやったほうが早いよ。
自分のを片付けられた人は、どうするか?
今度は誰かのをやってあげなくちゃ!と、うろうろして、手伝ってあげられる人を探すことになる。
善意の悪行の連鎖。
わたしは「ありがとうございます。自分でやりまーす」と、自分ですることにしているんだけど、そう言っても「いいのよー」とか「はいはい。一緒に片付けますよー」「ほら、貸して」と手を出される。
そのたびに「自分でやりまーす」「いいでーす」と断り、場合によっては「自分の道具は自分で片付けることが大事だと思っているから」と、ハッキリ言い続けて1年近く。
呼び止めて、そのお手伝いのボス格の人に「申し訳ないですがーありがたいんですけどーそれも習い事の1つだと思っているので-」と話したこともある。
最近みんなが、やっとわたしにかまわなくなってきた。でも、メンバーの出入りがあるので、そうすると、また同じ事が繰り返される。
された人が、わたしにかまい始める。
うーん。
それでも最近は「あの人にはかまわない方がいいよ」という申し送りがあるのか、かまわれなくなったけど。
1年だよ。
1年かかったわ。
家族や友人にそんなことをちょろっと話したら、「いいじゃんやりたいおばさんにやらせておけば」とか「いやなやつだなって思われているよ」と、わたしのほうが頑なだとあきれられたけどね。
お手伝いしたいボスは、とても優しくてにこやかで、誰にでも親切なの。みんなに声をかけて、いい人なの。
だから、そのお手伝いの件だけででちょっとギクシャクしてるのは残念に思う。
善意はありがたいし嬉しいけど
善意を向けられることはありがたいし、嬉しい。
困っている人には手をさしのべたいとも思う。
けれど、場合によっては大きなお世話。
迷惑になることもある。
それが相手のためになっているかどうか。
そこは柔軟に考えて、相手の言動にも耳を傾けて行動したいところ。
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