わたしは溺れかけたことがある。
わたしは泳ぎには自信があって、それが失敗の素だった。
何年経ってもその時の怖さは忘れられない。
とんでもなく怖かった要素の1つに、「わたしのせいで他の子も一緒に死ぬ」ということがある。
そうだ。わたしのせいで。わたしのせいでこの子も死ぬのだ。
それはとても恐ろしかった。
それから思ったのは「自分を過信してはいけない」ということ。文字で読めばあたりまえかもしれないけど、ほんとうに身にしみた。
理屈では、死ぬ気で手足を動かせば、わたしは泳げるわけで、なんとしてでも陸にたどり着けばいいわけ。
でも、しばらくすると思うように手足が動かなくなり、長く続くはずの息も続かなくなる。疲れが蓄積してくるのだ。
他の子を助けながら、ということや、以前よりも体力がなくなっていた、とかのマイナスの要素もあった。
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泳ぎにはかなり自信があった。
でも、溺れそうになった。
ぎりぎりだった。
ぎりぎりだったの。
もう、手足は動かせない。
息も続かない。
本当にぎりぎり。
それについて
「えーおれは泳げるもん」
「わたしは必死に泳いで助かったわ」
「もっと手足を動かせばいいじゃん」
「手足を動かしていればおぼれないよ」
すでに、海に出て溺れそうになっている人に、または溺れてしまった人に、それを言う?
言われても「確かにその通り」としか言いようがない。で、
「それができてれば溺れないよ。それができなくなっちゃったから、溺れてるんだよ」だ。
つらい気持ちを抱えて死を選んだ人にいうことも、それと似ているような気がする。
自殺するくらいならボランティアへいけ
わたしは以前こんなふうに思っていたことがある。
「自殺するくらいならボランティアへいけ」
「自殺もったいないよ」って。
わたし自身は「自分で死にそうになったら誰もいないところへ逃げる」ということを小さいころから考えてきた。いざとなったらどこかへ行こう。
だから、どこへも行かずに死を選ぶということはもったいなく思えた。
そして動けなくなる
でも、「そこから逃げる」ということすら、できなくなる。
ほんのちょっとしたことで、まるで溺れたときのようにできなくなる。
「どこかへ行く」「逃げる」ということすらできなくなってしまっている状態は怖い。
他人からしてみれば、ほんのちょっとしたこと、だ。
たいしたことじゃないことだ。
それなのに、まるで溺れてしまった時のように、そこから動けなくなってしまう。
怖い。
たいした深さでもないところで、溺れていく自分を発見した。
ああ、わたし弱いんだ。
びっくりするほど弱いんだ。
自殺していいとは言わない
そんな時が来ない人もいるだろう。多くの人はそうなのかもしれない。
でもわたしは発見しちゃった。
自分がとても弱いことを。
だから、溺れている人に「もっと手足を動かせばいいのに」というようなことは、わたしには言えない。もちろん「そのまま溺れればいいのに」とも思わない。
でも、気持ちがわかっても、「自殺していいか」と言われたら「いいよ」とは言わない。
そういう相談をされたら、話を聞いて、言葉を選んで、それを回避する方法を考えるだろう。(人望ないので、そういう相談をうけることもそうそうないとは思うけど)
弱さを共有したい。
だって、わたしもとても弱い人だから。
おわり。
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