おうつしかえ

ブヒブヒ言ってるだけです。誰も恨んでいません。

愛されたくてしかたなかった

なんでしょう。

 

友人と話していて、もやっと、ううん、もやっとではないのですが、何かちょっと小骨が引っかかるというか、ひりひりするというか、胸焼けするというか、違和感を感じることがあるんですね。

 

多分、「この人は幸せに愛されて育ってきた人なんだなー」ということを感じてのことなのだと、思います。

 

親しい友人と家族の話をしているときには、はっきり言われました。

 

「なんでそんなに親やきょうだいに気を遣うのかわからない」

「その他人行儀な感じって普通じゃないよね」

 

「愛情のベースとなるべきものを持っていない」

そんなことも言われたことあります。

 

そう言われると、確かにそう。

 

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一番近い家族にですらそんな状態ですから、誰にも心を許してなかった感じがします。

 

帰る場所なんかどこにもない感を持って生きてきたわけです。

 

いま母ときょうだいとは険悪ではありません。

まあまあ良好です。

 

ですが、ある年齢になってからは、本音を語ったこともないし、語る必要があると思ってもいませんでした。母とがんがん、いいことも悪いこともやりあうきょうだいを遠目に見ていました。

 

多分それは、向こうの問題ではなくて、わたしの問題だったのだと、今は思っています。

 

そのくせ、

やっぱり愛されたかった。

 

愛されたくてしかたなかった。

 

それを他人に求めたりしていたわけです。

 

お付き合いしても

「わたしのことが好きかどうか」

を、言葉に出して確かめようとしたり、

「わたしのことが好きかどうか」

を、行動ではかろうとしたり。

 

それをストレートに出していたわけではありませんから、それが原因で振られることはなかったですが、心の中でいつも相手を減点方式でチェックしては、どこか満足できない自分がいました。

 

足りない分は他の人や他の場で補う。

そんなふうでもあったと思います。

(浮気をしていたということではありません)

 

で、まあ、紆余曲折あって、いろいろあって、人生いろいろなのですが、ある時、うすらぼんやりと目が覚めたわけです。

 

問題はすべて自分にある。

考えかたを変えればいいだけだ、と。

 

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愛に対して

どれくらい

とか

判定することをやめました。

 

人への思いやりとか愛情の表し方*1は人それぞれですから、自分の思う愛情と違っていたからと言って、愛が足りないとか、本当にわたしのことを好きなのか疑問に思うことはないわけです。

 

これは愛だと思えば愛だし、愛じゃないと思えば愛じゃないわけです。そもそもそんなに愛してもらえるだけ、わたしがちゃんと愛しているのかどうか。

 

愛するって何?

そこすら混沌としているわけですから。

 

でもそんな風に思えるようになって、やっと自分のことを好きでいてくれる人や、わたしに愛情を持ってくれている人を大切に思えるようになったと思います。そして自分が思う愛の見返りを気にしないようになりました。

 

割り切れないことがたくさんあるのに、それが本当のところでわかっていなかった。

 

来世ではもうちょっとちゃんと人を愛せるように、と思っています。もうすでに来世の構想を練っていたりするわけです。罪深い。

 

そしていまは、皆様の幸せを祈りながら、心の巡礼でもして生きていきたいと思っている次第です。

 

みなさまのますますのご発展とご清祥とご健康とご多幸をお祈り申し上げ、今日はここまで。

 

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*1:DVとかは論外ですからね。