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おうつしかえ

ブヒブヒ言ってるだけです。誰も恨んでいません。

あの路地の先にあるのは

その日、わたしは母の家に行きました。

 

母のいつもの話。愚痴や、批難の言葉を、表情や声色を少しも変えることなく静かに聞き、笑顔で相槌を打ち、そして「また来るね」と何度も言って、ドアを閉めました。

 

エレベーターでエントランスへ出るときには、どっと疲れが出ます。

 

できれば早く帰って休みたい、自分のことをしたい、そんな気持ちを棚上げして、自分の気持ちを奮い立たせて母に会いに行っているのです。

 

「会いたいか」「会いたくないか」と言われたら、「会いたくないわけではない」ですが、「今日、いま、会いたいか」と言われたら、そうでもないと答えるでしょう。根っから冷たいのかもしれません。

 

それでもわたしが行くことで高齢の母が喜んでくれるなら、なんとか仕事や生活をやりくりして訪ねたいと思っています。たまにしか来られないことを、遠回しに言われたり「全然来ない」と愚痴られる前には。でも

 

「この時間をそっくりそのまま仕事してたらはかどるよね」

 

どうしても、そんな風に考えてしまいます。あたたかい気持ちでなく、半ば義務のように母に会いに行き、形だけにこにこしている自分が嫌になって、帰り道は暗い気持ちになることも少なくありません。

 

 

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母のマンションから出て少し歩くと路地があります。でもその路地は何となく暗くて夜はちょっと怖いのです。

 

夜、母の家から帰る時はその路地に入らず、右に曲がって大通りを歩きます。その大通りをまっすぐ西に行くと駅。駅までのいつもの明るい道のり。夜はこの明るい大通りを歩くようにしていました。

 

でも、その夜は大通りに出ず、細い道を真っ直ぐ歩いて行きました。重い気持ちで、明るい大通りに出る気になれなかったのです。

 

母のいつもの愚痴は、本当にいつもの愚痴で、何も変わるところはなかったのですが、少しずつ少しずつ、知らず知らずに、わたしに澱のようにたまっていたのかもしれません。

 

細い暗い道を真っ直ぐ歩いていきました。

 

初めての道ではありません。

 

何となく気持ちが重たくて、明るい道に出たくないときは、いつも大通りに出ずに、この細い道を歩いていました。

 

しばらく歩いて、ふと進行方向の先を見ると、自分の歩いている道の先。その道の先がないように見えました。まるで道が途切れているような感じ。

 

よく見ると銀色に光っているようにも見えます。

 

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大きな水たまり?いいえ。雨も最近降っていませんし、そこだけが水がたまることはないでしょう。なにかの加減で何かがそう見えているの?

 

その先には何があるんだろう。

その先に進んではいけないような気持ちになりました。

 

でも、回り道をするほどの気力もなかったのです。

 

何度も歩いたことのある道です。

「いつもの」ではないけれど、「何度も」歩いたのです。この道。

 

だから大丈夫。

 

少しひんやりとするものを感じながら、でもきっと、ひんやりしているのは、わたしの心だと思い、そのまま歩いて行きました。

 

「今日は大通りを行けばよかったかな」 

 

それでも今から歩いてきた道を戻る気力もなく、そのまま歩いていきました。

 

いつもは歩いていれば、真夜中だって誰かとすれ違うことは少なくないのに、その時に限っては誰ともすれ違いません。自転車でわたしを追い越していく人もいませんでした。たった一人。

 

遠くから見た、あの違和感のある場所が近づいてきます。

 

まるで異次元への入口のようにほんのり街灯の明かりに照らされている「そこ」。水面のように見えた場所はもうすぐです。

 

手に持っていたスマホが震えました。

ドキッとして見るとC子からでした。

 

「いま焼肉食べに来てるぅーどこにいるの?」

「いま母の家から帰るところ」

 

C子は地元の友だちで、母の家から少し歩いたところに住んでいます。

 

「だいじょうぶ?」

「なんかいま不気味な感じがして怖かったところ」

 

「路地?」

「そう」

 

「違う道を行ったほうがいいんじゃないの?」

「でも戻るのも面倒だし」

 

「そこからでも別の道にそれるとか」

「かなり戻らないとそれもできないし」

 

「戻ったほうがいいんじゃない?」

「うん、でも大丈夫だと思うから」

 

「気をつけてね」

「うん」

 

 

なんだ。

なにもなかったじゃない。

 

その場所を通り過ぎても、それはいつもの道でした。

異次元への道なんかあるわけありません。

 

道の続きはちゃんとありました。

もちろんです。

 

またスマホが震えました。

C子でした。

 

「だいじょうぶだった?」

「うん。ありがとう。何でもなかったよー。もう通り過ぎた。」

 

なぜその時に後ろを振り返ってみなかったのでしょうか。

 

その日からです。

ちょっとした違和感を感じ始めたのは。

 

小さな小さな違和感。

ほんのちょっとしたこと。

 

「あれ?これって買ったっけ?」

「持っていた帽子はこの色だった?」

「この本はここまで読んだかしら」

「お菓子の袋はいつ開けた?」

「買ったばかりの靴が見あたらないけど」

 

どれもこれも、記憶違いや無意識でのできごと、といえば、それですんでしまうような小さな違和感です。

 

ものだけでなく、人もです。

 

「はじめまして」

「いやーこの間お目にかかりましたよ」

 

いつも何かとまとめ役になるわたしだったはずなのに、いろんなことがわたしがまるでいないかのようにどんどん決められていきます。

 

あれ?

 

はっきりとした違和感を感じたのは、母を尋ねたときでした。

 

母はとても優しく前向きでした。

 

いつも繰り広げられる行政への批判や、日常の愚痴や、嫁への批難の言葉は全くありませんでした。

 

わいてくる不安。

 

 C子にメールしました。

 

「気のせいだよ」

そう言ってもらいたかったのです。

 

スマホが震えました。

 

メールではありません。

C子からの電話でした。

 

「大丈夫?」

「うん。ちょっと怖くなっちゃって」

 

「どうしたの?」

 

抱いていた違和感について話しました。

「そんなことあるわけないよね」

 

ちょっと黙ったあとにC子が言いました。

 

「あのさ。

あんたはあの時、あの路地を進んだんだよ」

 

「え?」

 

「やめろっていったのに」

 

「え?」

 

「ここが新しい世界なんだよ」

「あなたは越えちゃったんだ」

「もう戻れないんだよ」

「あなたはずっとここで暮らしていくんだよ」

 

なんで?

なんでそんなこと言うの?

冗談だよね?

なんでそんなことわかるの?

 

「わたしも越えてきたから」

 

 

母の家には相変わらず定期的に行っています。

 

行く回数は増えていませんが、行った後、暗い気持ちになることはなくなったような気がします。

 

職場は以前の世界よりも殺伐としています。

わたしはここではゆるふわな人のようです。

叱られてばかりいます。

 

やりがいのない仕事ですが、休日はたっぷりあります。

給料は少なく、貯金もありませんでした。 

つきあっていたと思っていた人は、別の人と付き合っています。

体は少しほっそりしています。

少し小食の人のようです。

お酒は飲んでも酔いません。

飲んでもにこにこしていられます。

友だちだと思っていた人はこちらでは友だちではありませんでした。

C子とも会っていません。

少ない友人と定期的に会って親交を深めています。

 

大きな違いはありません。

あっちもこっちも似たようなものです。

 

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